ロワール渓谷は、フランスのロワール川流域に広がる渓谷です。
アンボワーズ、アンジェ、ブロワ、オルレアン、トゥールといった歴史上の重要都市が点在し、また何よりも数々の名城が現存していることから「フランスの庭園」の異名を取ります。
また、かつての宮廷が多く置かれ、典雅なフランス語が発達したことから「フランス語の揺籃地」とも呼ばれます。
そして、ワインの有名な産地でもあります。

フランス観光機構オフィシャルサイト
http://jp.franceguide.com/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%88%A5%E7%B4%B9%E4%BB%8B/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9/%E5%9C%B0%E6%96%B9/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AB-%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB/%E3%83%AD%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%8F%A4%E5%9F%8E.html?NodeID=149&EditoID=68362
① Chateau de Chambord シャンボール城
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB%E5%9F%8E

思い描いていた優雅なお城とは、ほど遠い感じ。
小さな部屋が数多くあり、廊下がありません。
増築、改築が数多くなされ、18世紀の啓蒙時代には多くの人が住みました。
南の区画全体は、その時代の趣味や意見に合わせて再整備され、空間を狭くし、天井を低くし、16世紀の大きな暖炉に小さな暖炉をはめ込みました。

二重螺旋の階段。彫刻はフランス・ルネサンス傑作品のひとつ。
一方の階段から、もう一方の階段を通っている人とすれ違うことなくお互いの姿を垣間見ることが出来ます。
レオナルド・ダビンチの設計と云われていますが・・・。

【シャンボール城の 歴史】
1515年 城館の建設者フランソワ1世が北の翼面に住まいを設ける。
息子のアンリ2世は建設工事を引き続き、1547年から1559年にかけて礼拝堂の建設に取りかかる。
1641年から1643年にかけて、ルイ13世の兄弟にあたるガストン・ドルレアンが最初の修復工事を始める。
ルイ14世は本館の中心に彼の続きの部屋を作らせる。
1670年 モリエールが2階の衛兵の間で「町人貴族」を初演。
1725年から1733年まで ルイ15世の義父、ポーランド王スタニスラス・レスチンスキーが亡命者としてここに住む。
1745年 フォントゥノワの勝利後、サックス元帥はルイ15世から領土を受領し、ここで豪華な祝宴を催し、1750年没。
1809年 ベルチェ元帥はナポレオン1世から贈り物として受ける。
シャルル10世の孫息子ドゥ・シャンボール伯爵は、アンリ5世として国王になることもできたが、王座につかず1883年没。
1930年 国がシャンボール伯爵の後継者からこの城を買い取る。
② Le Chateau de Cheverny シュベルニー城
1500年頃建造以来同一家族の一家が居住している私有地。狩猟のメッカ。
歳を重ねれば重ねるほど白く堅くなるというブレ石で出来ています。

1976年に死亡したフィリップ・ユロール・ド・ヴィブレー侯爵は、歴史的な住居を一般に開放し、同時にそこで伝統を維持しながら生きていくことの必要性を理解したフランスで最初の所有者の一人です。
例えば、王族が好んだ繊細な芸術である犬による狩猟は、誰からも受け入れられる儀礼によって行われ、社会の実にさまざまな範疇からの参加者があります。
フォックスハウンドとポワトゥヴァンの混血の犬が飼育されている犬舎や2000頭の鹿の枝角が展示されている狩猟記念品の間を訪れると、1850年以来シェヴェルニーで狩りが盛んに行われていたことが理解できます。


比較的最近まで使われていた寝室。
今でも人が住んでいて、約半分のスペースのみ公開されている。



装飾は画家のジャン・モニエ(1600年頃生)のもの。
壁はコルドバ産の皮によってはってあり、そこには青の皮と太陽の陰を表している家紋が印されています。
家具は彫刻を施した柏材で19世紀のもの。
オランダ製のシャンデリアは18世紀のもので青銅に銀メッキが施してあり、重さは100キロあるそうです。
ルネサンス風の暖炉は石彫に金メッキが施してあり、楕円部はアンリ4世の胸像。炉の薪置台はルイ14世頃の物で大変素晴らしい床板もそのころのもの。

③ Blois ブロワ

歴代フランス王の幾人かが住居とし、またジャンヌ・ダルクが1429年、オルレアンからイギリス人に向けて軍を出発させる前に、ランスの大司教から祝福を受けた場所。
13世紀から17世紀にかけて造られた建物がいくつか、中庭を囲むように建っている為に建築様式の博物館と言えます。
そのうち最も有名な建築が、フランソワ1世の翼にあるすばらしい螺旋階段です。

フランソワ1世の翼部と階段

ルイ12世の回廊と聖カレ礼拝堂

フランソワ1世翼 カトリーヌ・ド・メディシスの部屋

1568年にギーザ公爵が暗殺されたヘンリー3世の部屋

フランソワ1世の紋章サンショウウオの暖炉


⑦ Azay le Rideau アゼ・ル・リドー

もともと、中世からアンドル川の中州の一端のあり、数世紀に渡って河川の保護をしてきた城塞でした。
1515年 ジル・ペルトロG illes Berthelot がこの城を時代に合ったものに立て替えました。
彼は国王に仕え急速な昇進を果たした人ですが、その華やかさを象徴するがごとく、古い城壁の両側に、川面に張り出した隅塔を飾りとした豪華な二つの住居を建造しました。
晩年は、汚職に問われて未完成の城に妻を残したまま逃避してしまいました。
1971年 フランス大革命の最中、自由主義の貴族シャルル・ド・ビアンクールが領地を買収し、中世の名残であった部分を取り壊し、ロマンティックな庭園を造ります。
第2帝政後、没落した侯爵の子孫が土地や家具を売り払い、1905年城は国の所有になりました。
シュノンソー城 (Château de Chenonceau)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%BC%E5%9F%8E
最初は、1411年に持ち主のジャン・マルクが扇動罪に問われて、国王軍により火をかけらました。
彼は1430年代に、その場所に城と水車を再建しました。
その後、彼の多額の負債を返済するため、相続者のピエール・マルクは1513年、シャルル8世侍従のトマ・ボイエに城を売却。
ボイエは城をいったん壊し、1515年から1521年にかけて新しい邸宅を建設しました。
仕事を時折見回ったのは彼の妻のカトリーヌ・ブリコネーで、彼女はフランソワ1世を含むフランスの貴人を2度城に招待しました。
城は、国庫への債務のためボイエの息子によってフランソワ1世に献上されます。
フランソワ1世が1547年に死ぬと、アンリ2世は城を愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈りました。
ディアーヌ・ド・ポワチエは城と川沿いの眺めを非常に愛し、アーチ型の橋を建設し、城を向こう岸と結び庭園に花や野菜、果樹なども植えさせました。
川岸に沿っているため氾濫に備えるため石のテラスで補強され、4つの三角形が配置された洗練された庭が作られました。
ディアーヌは城主でしたが所有権は王にあったため、長年の法的策略の結果、1555年、ようやく城は彼女の資産となりました。
しかしアンリ2世が1559年に死ぬと、妻で摂政のカトリーヌ・ド・メディシスはディアーヌを城から追い出しました。
城はすでに王室の資産ではなかったので、カトリーヌもシュノンソー城を召し上げて終わりというわけにはいかず、ショーモン城と無理やり交換させました。
カトリーヌ王妃はシュノンソー城に自分の庭を付け加え、お気に入りの滞在場所としました。
フランス摂政として、カトリーヌは城と夜のパーティーにかなりの金額を使いました。
1560年にフランスで初めての花火が打ち上げられたのは、カトリーヌの息子フランソワ2世の戴冠祝賀行事でのことでした。
カトリーヌが1589年に死ぬと、城はアンリ3世の妻でカトリーヌにとっては義理の娘になるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンが相続。
シュノンソー城でルイーズは夫の暗殺を知り、うつ状態に陥る。
彼女は残された日々喪服を着用し、しゃれこうべを刺繍した黒っぽいタペストリーに囲まれて、あてもなくふらふらと城の広い通路をさまよいました。
1624年にはアンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレがシュノンソーを居城とします。
その後ルイーズの相続人ヴァンドーム公セザール・ド・ブルボンとその妻ヴァンドーム公爵夫人フランソワーズ・ド・ロレーヌの資産となり、ヴァロア朝の遺産として代々引き継がれて100年以上が経過します。
1720年になるとブルボン公ルイ・アンリがシュノンソー城を買い取ります。
彼は少しずつ城の調度を売却。
すばらしい彫像の多くがヴェルサイユ宮殿に納めらました。
地所そのものはクロード・デュパンという大地主に売却。
クロードの妻ルイーズ・デュパン(資産家サミュエル・ベルナールの娘で、ジョルジュ・サンドの祖母)は、啓蒙運動指導者のヴォルテール、モンテスキュー、ブッフォン、ベルナール・フォントネル、ピエール・ド・マリヴォーやジャン=ジャック・ルソーを招待して城を生き返らせました。
彼女はフランス革命の折も、革命軍の破壊行為から城を守りました。
川を渡るための橋は近隣にはなく、シュノンソー城は商業にも旅行にも必須の場所だったから。
ルイーズはフランス革命期、村民を喜ばせるためシュノンソーの綴りを「Chenonceaux」から「Chenonceau」に変えたと言われています。
王政のシンボルと共和政とを区別するために、城の名前から最後の「x」をはずしたのです。
公的文書はこの説を支持していないが、城の綴りは「Chenonceau」が定着しています。
1864年、パリ中のガス灯を設置して財産を築いたダニエル・ウィルソンというスコットランド人が、娘のために城を購入。
カトリーヌ王妃の伝統に従って手の込んだパーティーに彼女は財産を使い、その結果城は差し押さえられて1891年、キューバの大富豪ホセ=エミリオ・テリーに売却される。
ホセは1896年に城を同族のフランシスコ・テリーに売り、1913年、チョコレート業者のムニエ一族が城を購入、現在も所有。
第一次世界大戦の間、ギャラリーは病棟として使用されます。
第二次世界大戦時にはシェール川をはさんで、川岸のナチス占領区側からヴィシーの「自由」区側へと脱出する手段ともなりました。
1951年、ムニエ一族は城の修復をベルナール・ヴォワザンに委託。
彼は1940年にシェール川が氾濫して損壊した建物や庭を修復し、以前の美しい姿を取り戻した。
16世紀、シェール川の上にシュノンソー城を築く際、トマ・ボイエは城の本丸と、マルク家の頃の本丸だけが残っていた製粉場を破壊。
マルクの塔については、ルネサンス様式に作り変えました。
Gien
先史時代、ケルト系のCarnutes族とガリア系のハエドゥイ族が定住したのが始まりで、
中世初期には、当時隆盛を誇っていたベネディクト会派のフルーリー修道院の所領となりました。
1462年、ブルボン公ピエール2世(フランス王女アンヌ・ド・ボージューの夫)がジアン領主となり、アンヌは1483年から1491年まで実弟シャルル8世の摂政を務めて栄華を極め、ジアンの居城をルネサンス様式に改修。
ユグノー戦争の最中には、ジアンはユグノーの牙城の一つで、フロンドの乱の時には、幼いルイ14世と王母アンヌ・ドートリッシュがジアン城へ一時避難しました。
1821年、イギリス人実業家トマス・エドム・フルムが、ジアンに製陶工場を開業。
これがジアン焼(Faïencerie de Gien)の発祥となった。
ジアン焼
http://www.gien.com/
今「Lespace du vin 筵」で使っているコーヒーカップは、ジアンで購入。
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